子供の幸せを願って

~未熟児で産まれ、知的障害・言語発達遅延を患った息子の成長において私ができること~

教育虐待について考える その③~教育の根源、そして虐待との境目とは?~

『教育的指導』と『虐待』の境目について、こんな意見がありました。

 

教育と虐待の境目「 一線を越えないために知っておきたいこと」【「教育」が「虐待」に変わるとき 第2回】|ウーマンエキサイト(1/2)

概念的な線引きとしては、「子どもの人権を尊重しているか」というところです。子どもを親の所有物ではなく、自分と同じひとりの人間だと思うことができているかどうか、それが「教育的指導」と「虐待」の境目だと思います。 

 

 

❝子供は親の所有物ではなく、一人の人間である❞

 

子供は親の所有物ではない。その通りだと思います。ただし、親や大人たちの管理下に置かれていると思います。

 

未成年の特に小さな子供たちは親たちの管理のもと日々を過ごしていると思いますが、それは社会生活を送るにあたってまだ未熟な部分が多いために、さまざまな危険から子供たちを守るため、また子供たちが大きな問題を起こさないようにするためでもあると思います。

 

そのために、社会のルールを教え、社会で生きていくために教育をしていく・・・それは子供たちのためにもなり、社会のためにもなっていく。

 

これだけ多くの人たちが集団生活をする世の中、もちろん個性やそれぞれの考えも尊重するべきではあるけれど、まずは周りに迷惑をかけない、他人を傷つけない、相手を思いやる、社会のルールは守る、ということなどに必要な大切な知識や行動を身に付ける必要があると思います。

 

そのため、個人の自由はそんな最低限で当たり前のことを土台とした上に成り立つものであると感じています。

 

大人自身もこういった暗黙のルールを身に付けたうえであれば、それぞれの意見や考えをしっかりと持ち、それを発信していくことは何も問題がないことなのではないでしょうか。むしろ、多種多様な意見や考えが集まることにより、世の中の発展につながっていくのだと思います。

 

逆に、社会生活を送るにあたり土台となるこの暗黙のルールが身に付いていなければ、その上に成り立つはずの個々の考えや気持ちが周りに受け入れられづらくなってしまうかもしれません。

 

子供たちはまだそういった大切な土台がしっかりと身に付いていません。だから、土台で失敗をしても私たち大人はそれを受け入れ、その都度子供たちと一緒にどのようにしたら解決するのかを考え教えていきます。そんなことを繰り返しながら、子供たちは大きくなるまでにその土台を固めていくのです。

 

大人になるまでにその土台がきちんと身に付かなかった場合、社会から孤立し、そんな孤独感から自暴自棄になってしまうことがあるかもしれません。 

 

だからこそ、まず子供たちの人権を尊重しながらこういった土台を一緒に築き上げていきたいと思っています。

 

もちろん、子供は物ではありません。親の言うことを聞くロボットでもありません。みんなそれぞれに、気持ちがあり考えがあります。

 

そんな大切な気持ちや意見を尊重できるような土台をしっかりと作り上げていくことが、教育の根源のひとつに挙げられるのではないかと思っています。 

 

 

 

そして、本題である『教育的指導』と『虐待』の境目は、❝子供の人権を尊重しているか❞ということにプラスをして❝子供が親の愛情を感じ取っているか❞であると思います。

 

いくら私たち親が子供のためと思ってやっていることであっても、子供自身がその真意や愛情を感じていなければ、子供が辛くやりたくないことは『虐待』にあたってしまうのではないかと思っています。

 

逆に子供がしんどく厳しいことでも、子供自身が親の愛情を感じているのであれば『虐待』にはあたらないのではないかと思います。

 

もちろん、意味のない体罰やおしおきは論外ではありますが、『虐待』とは子供が親にしっかりと愛されているという自覚があるかないかであると感じています。

 

それは、子供たち本人にしか分からないもの・・・それでも、毎日の生活の中で子供たちの表情や言動から伝わってくるものがあると思います。

 

だから、私たち親はそんなレーダーにしっかりと目を向け、子供たちの奥底にある気持ちを感じ取り、教育のさじ加減を調整しながら、さまざまな形で愛情を伝えていくことが必要であるのです。